椅子上生活

主に椅子の上にいます

AI絵の広告に対する違和感の正体について考えてみた

諸事情により今月中に5本ブログを書かねばなので(もっと期間はあったのに、残り5日を切ってからそういうことを言う…)、軽めのまとまりのない、今考えていることみたいなのを書いていく。


「AI生成画像」は各所で燃えたりしているのは知っているが、自分は遠くから眺めているだけで炎上に関わったことはない。

なので特に「AIは悪」みたいな思想があるわけではないのだが、最近広告でパッと見てわかるAI絵広告に複数遭遇して、少なからず嫌悪感を抱いてしまった。


特に技術としてのAIには悪い感情を持っているわけではないと思っていたので、自分のその感情に驚いてその正体について考えていた。



生成絵の見分けは、なんとなくだけど表情バリエーションの少なさ。口がパカっと開いている「とびきりの笑顔」が多い。
人が描くとそればっかりになることはなかなかない気がするのだが、とにかく特徴的な表情だと思う。
ネット上でそういう絵が良いとされるというデータだけに基づいた表情というか。
描かれている全員がその表情になることもなかなかないので、AIっぽいなあと思う。


あとはジブリ風の絵柄や教科書に載ってそうな無味無臭的な絵。こういうのも生成絵っぽい。


でも実はわたしは絵を描く上での目標は元々は教科書に載っているような、線の少なくて伝わる、きれいな無味無臭っぽい絵が描きたいというところがスタートで、それがはんこ絵(パーツの組み合わせだけで再現できるありふれた絵)と言われようが上等だと思っていた。

それをいざAIにやられたら、「あれ…?なんか思ってたんと違うな…」と今なっているところである。

無味無臭絵は自作したら下手さでしか自作を主張できないかもしれない。

でもとりあえずそういう絵を自由自在に描けるようにはなりたいなと思っている。
わたしの絵は説明のための絵のことが多いから。



さて嫌悪感について。

色々考えた結果、もしかしてその熟考されてなさが苦手なのかも、と思った。


例えばとあるゲームアプリの広告については

・明らかに特定の漫画の作風に寄せている
・それを意図したかしてないかは知らんが作ろうとAIを操作した
・そのアウトプットを良しとしてそのまま外に出そうと思った

という人間が存在することに嫌悪感を抱いている模様。
AIは勝手に出力して有料の広告を出さない。人がいる。


「こういう広告を出す時にここは注意しよう、ここに配慮しよう、誰に届けたい」という、アウトプットに至るまでのプロの仕事そのものを無視してる部分が不快につながるのかも。


AIによって、絵を好きじゃない人とか大事にしない人が絵を出力できるようになって、絵を粗末に扱うのが可視化されている状態というのが、わたしにはあまり好ましくない状況なんだろうなと思った。


絵は道具だけどただの道具じゃなくて思いを伝えるためのもので、広告も広告だけど、伝える手段なんだよということが欠けているのが嫌。


だからそれが欠けていたら別にAI広告じゃなくても人が作ってても嫌なんだと思う。

はあ、すっきりした。